2016年08月19日

桜は本当に美しいのか

 以下の文章では、水原紫苑の著書『桜は本当に美しいのか』の内容に触れています。ご了承ください。

 この本のテーマになっていることを漠然と感じたことのある人は結構いるのではないか。毎年お花見の季節になると大騒ぎ。どこが咲いた、どこは満開、もう散り始めた、どこが名所。もちろん仕事上の付き合いからどうしてもお花見という行事をしなければならない人もいるだろうし、お疲れ様とも思うが、「そんなにいいものか?」と呟きたくなる気持ちもある。とりわけ桜「だけ」がこんなに特別扱いされるなんて、と思うのだ。
 この本は、歌人としての立場から、桜がいかに日本人の「こころの花」に仕立てられていったかを辿っている。
 歌人による歌集の読み方を知ることができたのは面白かった。教科書にバラバラに取り上げられた歌一首一首の解釈を中心に読んできた経験しかない私は、「はあ、歌集の中で続けて置かれている歌の、つながり具合、まとまり具合や変化の出し方は、こう読むのか」と思った。
 とりわけ、古今集の中で、山の中に人知れず咲く、万葉集に出てきてもおかしくない桜を詠む歌などから始まって、だんだんと「人に見られる桜」、そして万葉集の時代にはなかった「散る桜」の美しさを詠む歌に至る、と歌を挙げながら追っていくところ。さらにそれは『新古金集』になると、現実の桜というよりも、桜の不在・非在が多く詠まれるようになっていく。実在でなくてもいい、ということになると、つまり桜は想像の中にある、美の象徴、追い求めるべきものになっているわけだ。
 さらに西行、定家、世阿弥と続いていく。
 もちろん、近代になって国家に利用された桜のイメージにも触れられているが、それはこの本の中心テーマではない。
 また、有名な歌についても、たとえば「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」の「こきまぜて」の音の響きにどうしても抵抗があるとか、逆に歌は下手だといわれる本居宣長の歌のいくつかをとりあげ、「行道にさくらかさしてあふ人はしるもしらぬもなつかしきかな」は文句なくいい歌だと思う、としている。そういう自分なりの評価を見せてくれるのもいい。
 現代に至ると、短歌だけではなくポピュラーソングにも桜は現れ、しかももう戦争のイメージも抱いてはいない。ただ季節の移ろいや繰り返しやはかなさの象徴でもあるようだ。
 桜ソングはあくまでも個人を歌うものであってほしいという願いで閉じられている。


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