2016年06月14日

佐藤泰志の作品をいくつか読んでみた

 以下の文章では、佐藤泰志の作品およびその映画化作品の内容に触れています。ご了承ください。


 1949年生まれで、1990年に自ら命を絶った佐藤泰志について、それほど知っているわけでもないし、思い入れがあったわけでもない。最近よく読んだ島田荘司(1948年生まれ)とほぼ同世代なわけだが、90年代に既にいなかった人、となるこ「過去の人」というイメージは拭えない。
 近年、佐藤泰志の代表作と言われる『海炭市叙景』と『そこのみにて光り輝く』が映画化されて話題にもなったことが、興味を惹いた。
 クレインから出版されている『佐藤泰志作品集』には、どちらも収録されている。
 それを読んで思ったこと。
 映画化に際して、どうも悲惨な面が強調されているな、ということ。それが日本映画の傾向なのか、原作者の最期を意識するとそうなるのか、はたまた悲惨な面を強調したほうが映画としての評価が高くなるのか、そのへんはわからない。
『海炭市叙景』は、原作では18の短編連作で、中には切手を収集する中学生や、親の別荘に夏だけ滞在している19歳の青年の話しもある。しかし、映画化で取り上げられたエピソードは、妻の浮気を疑う男の話や、逆に自分が浮気しているプロパンガス店の男の話、立ち退きを拒む老婆の話、飲み屋でケンカを止める話、山で行方不明になる兄と待つ妹の話、などだ。深刻なものが多い。原作では、そういう深刻な話ももちろんあるが、そこに軽く明るい(それゆえにふわふわして長続きしそうにはない感じのする)エピソードも挟まれていたのに。そして、それらの明るい話の中で、『ミツバチのささやき』とおぼしき映画や、ジム・ジャームッシュの映画に言及されていると、昔の人と思っていた作者がふと近づいてきたような気にもなったのに。
 映画では、どこか見捨てられたような海炭市の様子は、よく出ていたと思う。逆に言えば、そこには、明るさが足りない気がした。もう少し、若い世代の明るい話も入れても良かったのではないかと、小説を読むとそう思った。
 
『そこのみにて光り輝く』は評価の高かった映画だ。この高評価はマイナス点をつけにくい、という意味かも知れないと思うこともあるが。
 これもまた映画のほうが悲惨だ。原作のヒロイン・千夏が、寝たきりなのに性欲だけはさかんな父の相手をしているらしい、とわかるラストだけでも結構な衝撃だが、映画ではさらに、千夏の元の男がいやらしく、千夏の弟がその男を刺してしまうという展開になっていた。ただ、この原作には続編にあたる『滴る陽のしずくにも』というのがあるそうで、それはこの作品集には収録されていないので、もしかすると続編ではそういう展開があったのかもしれないが。

 とにかく私が映画を見た時の印象は「ここまで悲惨にしないでほしいな」ということであり、この原作を読むといっそうその思いが強くなる。そこまで悲惨な要素(特にヒロインを悲惨な目にあわせる)を入れないと、「いい映画」にならないのか? たぶん中年以上の男性が多いだろう映画の批評家には、そういう形でないと受けないのか? つまり自分も悲惨な目にあいながら家族を支える黄金の心を持つ娼婦、みたいな女が出てくるほうが受けるのか。
 しかし原作の千夏には気のいい娼婦みたいな印象はなかった。

 解説で福間健二が、佐藤の作品の特徴を書いている。
「佐藤泰志の表現は、中上健次のような、神話的な時空への展開を持たないし、また、村上春樹のような、ニュートラルな身ぎれいさに向かうこともない。ひとくちにいえば、等身大の人物が普通に生きている場所に踏みとどまっている。虚構への飛躍度が低いのだ。」

 現実的であること、どこかこの社会に違和感を覚え、反発しようとしているようなところ、は嫌ではない。ただ、男女の関係を見ると、やはりその時代のものだという気がする。男二人の住まいに泊まった女が、翌朝の食事の準備をする。男の一人が、こんなふうだったら一緒に住んで欲しいようなことを言う。女は一緒に暮らすなら三人で交代よ、と言うが、次の朝もやっぱり女が準備している。現代ならこの時点で三人一緒に暮らすという夢は、女によって「おしまい」と宣言されるだろう。そうなっていないところが80年代までの、作者が暮らした時代であり、もしかしたら作者の自死も、男として一家を養っていかなければならないというこだわりにも関係があったのかもしれない。
 そこは、たいして読み込んでいない私などの口を出すところではないのだけれど。


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