2016年06月10日

探偵ミタライの事件簿 星籠の海

 以下の文章では、映画『探偵ミタライの事件簿 星籠の海」の内容に触れています。ご了承ください。


 タイトルが長い。原作小説はあっさりと「星籠の海」だが、もちろんこれが名探偵・御手洗潔シリーズの一作であることを読者は知っている。原作に触れていない人にも探偵もの、推理ものであることを知らせるために、映画のタイトルは長くなったのだろう。

 御手洗シリーズはもう35年も続いているのだが、「星籠の海」は故郷の福山市を舞台に、島田荘司が最初から映画化を前提にストーリーを考えた。小説は膨らんで上下二冊の大作になったが、脚本は大筋をもとに人物を減らし、福山が舞台だという点は存分に生かしている。
 原作からのファンが不満に思うかもしれない点は、御手洗の相棒・石岡が登場しないこと。御手洗がホームズならワトソンに当たるのが石岡で、二人のやり取りに笑えるものが多いのだが、今回は彼が不在で編集者の小川という女性が同行するという設定なので、石岡との間の長年親しんできた者どうしに許される遠慮のない会話は聞けない。
 天才・御手洗に対して一般人の石岡がいることで、読者も御手洗の推理を解説してもらうことができるわけだが、ここでは小川がその一般人の役目をつとめる。地元警察の、御手洗に反発する若い刑事と、「まあまあ」となだめつつ御手洗の推理についていけないベテラン刑事が登場するtのも、小説にもよくあるパターンだ。
 既に原作も読んでから見たミステリファン、御手洗ファンが多かったようだが、映画の評価は分かれる。
 原作では世界中で悪事を働いてきた新興宗教の教祖が最大の悪人で、事件の解決は、悪が日本に押し寄せるのをとどめる役も担っていた。人物を改変することで、そのスケールの大きさは失われた。それを残念がる人は、この映画をあまり高く評価しない。
 しかし、悪の親玉を外国人にするという設定は、映画ではしないだろうなと思っていた。もし、この映画を外国に出すことを考えるなら、それはまずいだろうから。また、小説には原発が原因で亡くなる子どものエピソードもあるのだが、これもたぶん映画には入れないだろうなと思っていた。要するに、私が「これはないだろうな」と思った要素は予想通りなかったので、そういう意味ではがっかりはしなかった。石岡が登場しないのは残念だが、声だけは出てくる等、工夫はしている。
 巨大な悪というよりは日本的・情緒的な色合いの濃い犯罪になったのは確かだが、御手洗自身が悪を見逃すわけではないし、あくまでも謎解きの面白さを主軸にしたところが良かった。
 映画を評価する人は、スリリングな謎解きものとして二時間弱でスピーディにまとめ、すべての謎を解いてみせる手際のよさを賞賛する。また、長年ファンが思い描いてきた御手洗を演じて不満や落胆を引き起こすことのない玉木宏の実力を認めている。
 彼が御手洗を演じるのはテレビドラマに続いて二度目だが、さらに御手洗っぽい。テレビドラマの時より顔が痩せて頬骨がはっきりわかるのも日本人離れした容貌を引き立てているし、服装も見た目に構わないふうでありながら、それなりにこだわりのある人物に見せている。
 安定した低音ボイス。何かを見つけた時、ひtらめいた時、淡々と謎解きをする時。各場面の表情がきちんと変化している。
 エンタテイメントものの評価が低いことを考えれば、この映画の評価は決して高くはないだろう。けれども長年多くの人が夢想してきた御手洗を具体的に存在させ、ファンを満足させたことは記憶されていいと思う。
 


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