2016年05月18日

ひそひそ星

 以下の文章では、映画「ひそひそ星」の内容・終盤の展開に触れております。ご了承ください。


 久しぶりに今池に行ったら、駅構内にコンビニ等ができていたのに驚いた。ガスビルから地上に上がって、シネマテークまで歩く道沿いの店も、変わっていた。そんな中、シネマテークがこの地で30年以上あり続けているのは、すごいことに思えてくる。
 
 シネマテーク通信に、園子温監督のインタビューが載っていて、久しぶりに名古屋シネマテークで公開ですね、とインタビュアーが言っている。最近の園監督の映画は、もう少し大きなところで公開されていたので、久しぶり、なのだ。
 そして肝心の映画『ひそひそ星』は、まさにシネマテークにふさわしい映画だった。たたみかけるようなところがなく、娯楽的要素は少ない。思い入れがあり、美しい画面があり、不思議な融合があり、しかし、うっかりすると居眠りしてしまう。
 昔の日本家屋(平屋)そのままに推進力だけくっつけたようなう宇宙船で、星々へ宅配便を届けているアンドロイドの洋子。既に人間は2割、アンドロイドが8割になっている世界。瞬間移動できる装置もあるのに、それが人間にもてはやされたのは最初のうちで、こうして何年かかっても荷物を届けてほしいという依頼がある。それはアンドロイドである洋子には理解できないが「距離と時間へのあこがれは、人間にとって心臓のトキメキと同じようなものかもしれない」と思っている。
 宇宙船内で洋子のしていることは、ほぼ主婦のようだ。ただし、だいぶ楽な主婦。他の人のために食事の用意をする必要もないし、洋子自身アンドロイドだから、食事をとる必要もないのだろう。排泄も入浴も必要ないから、トイレ掃除・風呂掃除もない。部屋の掃除はしているが、ゴミ処理をどうしているのか、気になるところだ。
 配達の場所は、いくつかの星にわたっているはずだが、皆同じ日本の場所で撮影されている。福島の、無人になった被災地だ。電線の無くなった電柱がずっと続いている一本道。かつてそこが何の店だったかがわかる看板は残るが、もう入口も窓も壊れている店の並ぶ通り。海岸。打ち上げられた船の周りにぼうぼうと草の生い茂ってきている場所。
 この映画はほぼ全編が白黒なのだが、窓ガラスのすっかり無くなった廃墟の中から見る、外の日がかんかんと照っている景色だけが一場面、鮮やかなカラーになる。
 洋子は淡々と荷物を届け、受け取りのサインやハンコをもらう。時には宇宙船の中で、荷物の中身を覗いてみる。フィルムの切れ端、一枚の写真、ペンが一本、絵の具を置いたままのパレット。それらは洋子にとってそれ以上の意味はないものだろうが、届くのに何年かかっても届けるということ自体に、彼女が疑問を抱いている様子はない。宇宙船の中で掃除をし、お茶を飲み、コンピューターと話す。その繰り返しに彼女が退屈している様子もない。
 会話はほぼ、ささやくような声で行われるが、映画のセリフとしてはきちんと聞き取れる。
 画面は被災地を映すとき、残酷ではあるが、廃墟マニアが感じるような美しさがなくもない。
 届けた荷物を受け取った際に、代わりにカメラを渡していく男の子が終盤に登場する。
 洋子は宇宙船の中で、そのカメラを使って撮り始める。
 洋子の覗いた荷物の中身は、ほぼ記録するための道具(ペン、パレット)や、記録されたもの(写真、フィルム)だった。洋子も、自分の声で日記のようなものをテープレコーダーに吹き込んでいたのだが、途中でレコーダーが壊れて以来、それはしなくなっていた。
 声ではなく、画像で記録することにしたのだろうか。
 被災地を映し出す映像は、ときにセリフがまったく無く、かなりの時間続いていた。それは作り手が、やはりセリフよりも画で伝えていくことを選んだ、ということを示していたのだろうか。


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