2018年02月01日

舞台「危険な関係」2

 続きです。

 女性には、わりとその意見に賛成してくれる人もいるのではないかと思うけれど、メルトゥイユ夫人はカッコイイ。女は男に従属するのが普通だった時代に、自分で本を読んで研究し、男と対等に生きようとする。飽きる前に亡くなってくれた、とは亡夫に対してずいぶんな言い方だが、つまり彼女は夫が生きている間は、愛人を持たずに済んだのだろう。そして夫の死後は、どんなに再婚の申し込みがあっても独身を通す。今までの(歴史上の)女たちの復讐をしているのだと言う。近代のフェミニストが言いそうな言葉だ。
 男と対等でいたい、というだけでなく、愛に関してはロマンティックな面もある。かつて恋人だったヴァルモンはいまだに彼女とベッドを共にすることを願っているのだが、彼女は厳しい条件をつけた上、一緒に過ごすなら一夜だけ、と言う。一夜だけ過ごして別れるのが一番いいのだ、と。そこには「倦怠など感じる前に別れる」という現実的な側面を共に、「美しい思い出にしておきたい」という願いも感じられるではないか。
 そんなふうに「自分にとって最良のやり方」がわかっているのが彼女なのだ。
 ヴァルモンは、どうか。彼は狙った女性を攻略するのには知力を尽くしても、いったん関係を持ったとなると、熟慮した行動をとっているとは言いにくい。セシルの妊娠にしても面白がっているようにメルトゥイユには話すけれども、最初から計画にあったわけではないだろう。おそらく、メルトゥイユは、ヴァルモンのそういう面も知っていた。だからトゥルヴェルを手に入れた後の彼が、彼女にのめり込んで行くかもしれないという予想ができた。そして、それを阻止する。
 それはヴァルモンに、プレイボーイとしての面目を保たせるためなのか、嫉妬なのか? 私は、彼女があくまで彼と対等でいたかったのだと思う。
 自分がヴァルモンに従属するのは嫌。でも彼のほうが自分より劣った(?)存在になるのも嫌。自分が、ひとりだけに深入りすることなく、きれいに別れて楽しんでいるように、彼にもそうしてほしい。お互いにそうできる者どうしなら、いい関係でいられるんじゃない?
 おそらくヴァルモンには、そこまでの割り切りができていない。エミリーのような娼婦は別として、それなりにくどいて関係を持った相手には、たぶん彼は彼なりの「恋愛」をしているのだ。それがトゥルヴェルに対しては深くまで行き過ぎた(とメルトゥイユには見えた)。ヴァルモンはメルトゥイユに指摘されてトゥルヴェルと別れるが、自分がいつもより深入りしていることに自覚的ではなかった。

 考えてみれば、この話の中でもっとも「恋愛のはじめから終わりまで」を描いているように見えるのは、ヴァルモンとトゥルヴェルの関係なのだ。反発、反発しながら惹かれる、激しい求愛、相思相愛、喜び、別れ、悲しみ。そのひと通りを経験した二人は幸せだったのかもしれない。トゥルヴェルが病気になり、ヴァルモンが死に、その知らせを聞いたトゥルヴェルも死ぬという結末は、時間差の心中だと言えなくもない。そういうところが、軽薄で残酷なヴァルモンを、この話の中で一番ロマンティストだったのかもしれない、と思わせる要因だろう。
 それに対して、メルトゥイユはあくまで「ゲームを続ける人」であろうとする。しかし、ラストでゲームを続けているはずの彼女は目隠しをされてたいへん危うい感じに見える。その姿は、時代に取り残され、それでもなお、自分のやり方を続けていこうとする人のようにさえ見えるのだ。しかし彼女は最後までプライドを持って貫くのだろう。
 ヴァルモン、メルトゥイユともにそういう見方ができるので、ただの嫌な人、策略家には見えず、心に触れるのだろう。

 当然だが、伏線の多いセリフにも惹かれる。第一幕の終わりで、いったんはヴァルモンから逃げ出すトゥルヴェルがロズモンド夫人に相談すると、夫人は「男は自分が幸せになれば満足する。でも女は男を幸せにしないと満足しないのだから」と言う。ついにトゥルヴェルががヴァルモンに陥落する時、これが効いてくる。
 ヴァルモン「どうしてそんなに苦しむんだ。僕を幸せにしてくれるんだろう?」
 トゥルヴェル「ええ、あなたを幸せにしなくては、私ももう生きていけない」
 また最初のほうでメルトゥイユがヴァルモンに「回顧録に書けば?」と言い、彼が「書いている暇はないんじゃないかな」と答える場面も、ヴァルモンは回顧録を書く暇もなく死んでいくことを早くも暗示しているようにも見える。

 なお、舞台に現れる現代日本でもありそうな小道具。もしかしたらこれらは、18世紀フランスと現代日本とで同じような話が進行している、という形を表しているのかもしれない。もちろん現代日本に決闘による死は、ない。しかしスキャンダルによって人を社会的に葬ることはできる。そのあたりに現代に通じるものを感じたトワイマンの演出なのかもしれない。  

Posted by mc1479 at 11:10Comments(0)TrackBack(0)

2018年02月01日

舞台「危険な関係」

 昨年のことになってしまったが、鑑賞した舞台「危険な関係」のことを書いておきたい。なお、舞台の内容・最後のみならず、これまでの映画化についても触れています。ご了承ください。

 何度も映像化されている作品だが、私の見たことのあるのは、ロジェ・ヴァディムの二度の映画化、スティーブン・フリアーズのもの、ミロシュ・フォアマンのもの、そして舞台ではアダム・クーパーのバレエ。バレエは表現方法がかなり違うので置いておく。
 ヴァディムの一度目の映画化はジャンヌ・モローとジェラール・フィリップという魅惑の顔合わせだが、私は実は二度目のが結構好きだ。ナタリー・ドロンとジョン・フィンチとシルビア・クリステル。何しろシルビアがトゥルヴェル夫人だからフルヌードあり。ジョン・フィンチもヌードで。フィンチというと、これ以外には『マクベス』『ナイル殺人事件』くらいしか見たことがないのだけれど、ここでは我儘で繊細な感じ。彼が致命傷を負って倒れた瞬間にバッサリという感じで終わる、その終わり方も気に入っている。

 さて、今回はもちろん、玉木宏がヴァルモンを演じることに興味があった。一般的なイメージからいけば、ぴったりではないだろうか。貴族で、チャーミングで、女に不自由していなくて、恋愛をゲームとして楽しむ。年上のメルトゥイユ夫人とかつて恋人どうしだったというのも、彼のこれまで演じてきた役で年上の女性と恋仲になるのがわりとあったことからも自然に思える。

 舞台は18世紀フランスには見えない、巨大な引き戸(透明なものと、向こうが見えなくなっているものとある)を活かした空間。引き戸の向こうは庭であったり、寝室であったり、場面に応じて適宜変わっていく。そして戸の上方や、柱に当たる部分に、たとえば「八月 メルトゥイユ侯爵夫人邸」というように時と場所を示す字幕が投影される。この字幕と引き戸の活用で、場面転換をスムーズにしている。
 
 私が初めに見たのは二日目(初日はチケットが取れなかった)。正直に言うと、ちょっと焦り気味な感じがした。場面転換がスムーズなのは良いのだが、役者さんたちが息つく暇がない、という感じなのだ。特にヴァルモンはセリフの言い方が速く、もう少しゆっくり時間をとってもいいのではないかという感じがした。
 三日目になると、セリフの速さになじんできた。捉え方によっては、この話し方はヴァルモンの生き急ぐような、どこか自分の破滅とこの社会の終わりを予感しているようなところをも表しているような気がした。
 しかし、誤解を恐れずに言うなら、演出が活かそうとしたのは、玉木のセリフ回しより、まず身体だろう。細見で筋肉質、なめらかでごつごつした感じがないのに、力強い。白いシャツに身を包んでいると、どこにこんな清潔で高貴な人がいるかしらという趣なのに、上半身裸になると危なくセクシー。適切な場面で彼の上半身を見せることによって、実はこんな危険な男、というのを説得力を持って見せる。
 脱ぐとすごく鍛えられた身体なのだが、顔が小さく着やせして見えるのは、ラスト近くの決闘シーンにも効果的。ダンスニーは死にもの狂いなので卑怯な手も使って執拗に攻める。ヴァルモンはどこかそれを受け入れている感さえある(「いいじゃないか、正当な理由があったんだ。それに引き替え、俺のしてきたことといったら」という最期の言葉がそれをほのめかしているようにも思える)。
 そしてその身体が細く長く横たわったまま(つまりヴァルモンの死体は舞台上にあるまま)最後の場面を迎える。最後に「ゲームを続けなくては」と言ったメルトゥイユ夫人は目隠しをされ、身体を何度か回される。もちろん、夫人の言葉を素直に受け取れば、これは「ゲーム」なのだろうけど、目隠しをされたままの彼女が宙を探るように腕を伸ばすところで暗転して終わる、という最後は、ちょっとヴァディムの二度目の映画版のラストを思わせるようなぶった切り方でもあって、余韻というよりショックを味わわせるような終わり方だった。

 ここで、いったん切ります。  

Posted by mc1479 at 10:27Comments(0)TrackBack(0)
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479