2015年03月23日

『妻への家路』

 以下の文章では、映画『妻への家路』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

「文化大革命に引き裂かれて20年、再会した妻は夫の記憶を失くしていた。」というのがチラシに書いてあった言葉だが、これは正確ではない。20年ずっと離れっ放しではなく、途中で一度、夫は逃げ出してきたのだ。しかし扉をたたく音を聞いて、妻は鍵を開けなかった。夫は明日、駅で待つから、とメモを残すが、当時の教育を真面目に受けていた娘は、それを密告する。妻は駅に行くが、目の前で夫は連れ去られる。
 さて夫が正式に解放されて帰ってくると、妻は「二度とあの人を締め出したりしないように」と鍵をかけずに暮らしている。娘のことは許せず追い出して、娘は勤め先の寮にいる。そして、帰ってきた夫のことを夫だと認識しない。
 そこから夫の苦心が始まる。まず、妻が自分の出した「5日に帰る」という手紙を信じていることを知り、5日に駅にやってくる。今着いたばかりのようにして妻の前に現れるが、妻はやはり夫のことをわからない。
 そこで夫としてではなく、妻を手助けする。「夫が帰ってくるまでにピアノの調律をしたい」と聞くと、調律のにわか勉強をしてそれをやる。そうしてピアノでたぶん懐かしい曲か何かを弾く。ピアノを弾く夫の背に妻は近づく。しかし、夫が振り返るとやはりダメ。
 書いても出せなかった手紙がまとまって荷物として届く。目が悪くなって読みづらいという妻に、夫はそれを読んでやる。その手紙の中に自分の願いをすべり込ませて、娘を許してやるように言うと、それには妻は素直に従う。しかし夫はこのままでは自分は「手紙を読む人」になってしまうと焦る。そこから一歩踏み込もうとすると、激しく拒絶される。
 いい関係が結ばれたのかと思うと、またダメで……ということの繰り返しが描かれた後、一気に歳月が過ぎたラスト。夫は妻と一緒に「待つ人」になっている。夫の側からしたらもどかしくてたまらないかもしれないが、素直に受け入れられる結末だった。妻を愛し続けているのなら、たぶんこういう結末しかないのだろう。
   

Posted by mc1479 at 12:59Comments(0)TrackBack(0)

2015年03月23日

『はじまりのうた』

 以下の文章では、映画『はじまりのうた』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 最近またテレビで『ONCE ダブリンの街角で』を見て、素朴でいいよねと思ったこともあって、同じ監督の新作であるこれを見に行った。今度はダブリンではなく、ニューヨークが舞台。その街のあちこちでロケをしているという点では、前作以上に「街が主役」の映画なのかもしれない。
 ただし、ここには『ONCE』を見た時のような、意外な拾い物をしたような喜びはあまりない。男と女が音楽を介して心を通わせながら恋人どうしにはならずにそれぞれの道を行く、というのは『ONCE』の時には新鮮な感じがしたが、今回は「そうなるのだろうな」と予想できてしまうからだ。
 名前と顔を知られた俳優さんが出ているから、「もしかしてこの人たちは、ほんとうにこういう生活を送っているのかも」と思わせる力も弱い。主人公のグレタがギターを弾き歌う場面では、どうしても「キーラ・ナイトレイがギターを弾き歌っている」と見てしまうからだ。ただし、ニューヨークの街のあちこちで演奏して録音する場面では、「なるほどニューヨークでなら、こんなこともできるのかもしれないなぁ」と思わされた。こちらが漠然と持っているニューヨークのイメージ――雑然としていて自由で――にハマるからだろう。
 そこがこの映画の一番の見所だ、と言ってしまえばそうかもしれない。そして主人公たちが、現代では特に有名レコード会社に頼ったりしなくても、自分たちの音楽を世に出せることを示して見せるのも小気味良い。もっともそれだって、今までの人間関係に頼ってはいるのだが。  

Posted by mc1479 at 12:38Comments(0)TrackBack(0)
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