2015年02月24日

「ジミー、野を駆ける伝説」

 以下の文章では、映画「ジミー、野を駆ける伝説」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 変わることなく「ケン・ローチの映画」としか言いようのない映画を作り続けているケン・ローチの新作。
 体制には不適合な人々を描くことが多く、だから挫折や敗北の色が濃いのだが、にも関わらず郷愁を誘うような温かさがある。というのが、私の勝手にイメージする「ケン・ローチの映画」なのだが、ここでもそういう感じ。
 1932年、アメリカで暮らしていた(逃走していた、というのが正しいのか?)ジミー・グラルトンが、アイルランドの故郷に戻ってくる。かつてジミーはそこにホールを建て、仲間を集め、それぞれが分担して歌やダンスや絵などをボランティアで教えていた。そのことを伝え聞いていた若者たちが、それを再開してほしいと願う。かつての仲間に新しい若い仲間が加わって活動は再開され、ホールは賑わう。
 しかし教会はそれを好まない。神の名のもとではなく人々が集い、低俗な音楽やダンスで欲望をかき立てる、とにらむ。さらに、ジミーは共産主義者だと思われている。富裕層の地主にとっては、彼が多くの人を束ねる力を持つのは脅威だ。
 ジミーは教会を敵に回すのは得ではないと考え、司祭に「ホールを運営する委員になってほしい」と提案するのだが、司祭は運営のすべての権限を任されるのでなくては承諾しないと言う。ジミーは「あなたは膝まずく者しか救わない」と言って決別する。
 結局、ホールは不審火で焼け、ジミーは国外追放になる。その日、ジミーを護送する車を、若い人たちが自転車に乗って追う。口汚くジミーをののしる地主たちを司祭は止め、「君らよりよほど骨のある男だ」と言う。

 こういう映画を見ると、とても本物らしい、と思うのだが、それはなぜかを説明するのは難しい。ジミーを演じるバリー・ウォードをはじめ、すべての俳優さんたちを私が知らないからだろうか。昔ジミーとつきあっていた女性も、今ジミーに憧れているらしい若い女性も、モデル体型ではなく、ややぽっちゃり型だから、リアルに見えるのだろうか。いや、やはり感動をあおり強制することのない、抑制された表現によるのか。楽しくはないかもしれないけれど、見て満足のいく映画だというのは確かだろう。  

Posted by mc1479 at 12:15Comments(0)TrackBack(0)
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