2015年01月11日
「東京公園」感想
以下の文章では、映画『東京公園』の内容・結末に触れています。ご了承ください。
私は、自分ではあまり写真を撮らない。それなのに、この映画を「写真を撮る大学生の話」と知っていて見たのは、ここでは「写真を撮ること」がどう意味づけられているかに興味があったからだ。
大学生の光司は、公園で家族写真を撮っている。たいていは許可を得ているようだが、ある時、少し離れた所にいる母娘を撮って、男にとがめられる。その男は、撮られた女性の夫だった。光司は、夫から奇妙な依頼を受ける。妻はあちこちの公園に出かける。どこへ行くか、メールを送ってくるんだ。その公園を伝えるから、妻を撮影してくれないか。
夫は、妻の浮気を疑っているのだ。尾行のような光司の撮影が始まる。そのために光司は今までの大きなカメラではなく、友人ヒロのデジカメを使うことにする。
光司と、撮影される母娘に交流が生まれるのかと思えば、そうはならない。
光司には、また彼自身の物語がある。血のつながらない姉の美咲への感情は、恋なのか。
友人ヒロは実はもう死んでいて、光司にだけ見えている。ヒロの彼女だった富永はそれにこだわるが、彼女もまた光司への思いに揺れている。
結末から言えば、光司は姉との間に恋愛感情はあったかもしれないが、それは既に終わったものと悟り、ヒロの姿は消え、富永は光司と暮らし始める。
「写真を撮ること」は、ここでは相手をしっかり見ることだ。光司は女性が浮気などしていないことを確信し、夫にデジカメを譲って、これで奥さんを撮るようにと勧める。また、光司自身はカメラを通して姉を見つめ、姉を撮ることで姉の感情と自分たちの関係を理解する。
光司が姉を撮影する場面では、もっと二人の顔に寄ったアップが見たい気もするのだが、そういうふうに撮るのは、きっと監督の手法ではないのだろう。
タイトルに入っているだけに、公園の景色も美しい。光司がバイトをしているバーのマスターが開いたパーティで酔った客は「中心に大きな公園がある。さらにそれを取り巻く大きな公園が東京だ」と語る。
きれいすぎる、予定調和だ、と言うこともできるだろうけど、あと味はいい映画だと思う。
私は、自分ではあまり写真を撮らない。それなのに、この映画を「写真を撮る大学生の話」と知っていて見たのは、ここでは「写真を撮ること」がどう意味づけられているかに興味があったからだ。
大学生の光司は、公園で家族写真を撮っている。たいていは許可を得ているようだが、ある時、少し離れた所にいる母娘を撮って、男にとがめられる。その男は、撮られた女性の夫だった。光司は、夫から奇妙な依頼を受ける。妻はあちこちの公園に出かける。どこへ行くか、メールを送ってくるんだ。その公園を伝えるから、妻を撮影してくれないか。
夫は、妻の浮気を疑っているのだ。尾行のような光司の撮影が始まる。そのために光司は今までの大きなカメラではなく、友人ヒロのデジカメを使うことにする。
光司と、撮影される母娘に交流が生まれるのかと思えば、そうはならない。
光司には、また彼自身の物語がある。血のつながらない姉の美咲への感情は、恋なのか。
友人ヒロは実はもう死んでいて、光司にだけ見えている。ヒロの彼女だった富永はそれにこだわるが、彼女もまた光司への思いに揺れている。
結末から言えば、光司は姉との間に恋愛感情はあったかもしれないが、それは既に終わったものと悟り、ヒロの姿は消え、富永は光司と暮らし始める。
「写真を撮ること」は、ここでは相手をしっかり見ることだ。光司は女性が浮気などしていないことを確信し、夫にデジカメを譲って、これで奥さんを撮るようにと勧める。また、光司自身はカメラを通して姉を見つめ、姉を撮ることで姉の感情と自分たちの関係を理解する。
光司が姉を撮影する場面では、もっと二人の顔に寄ったアップが見たい気もするのだが、そういうふうに撮るのは、きっと監督の手法ではないのだろう。
タイトルに入っているだけに、公園の景色も美しい。光司がバイトをしているバーのマスターが開いたパーティで酔った客は「中心に大きな公園がある。さらにそれを取り巻く大きな公園が東京だ」と語る。
きれいすぎる、予定調和だ、と言うこともできるだろうけど、あと味はいい映画だと思う。