2013年04月13日

ホテル マジェスティック 感想④

今回で『ホテル マジェスティック』の感想は最後の予定です。

『ホテル マジェスティック』を見て「巧い」とか時には「ベタだ」と思いながらも毎回私は心を揺さぶられていた。それはなぜだろうと考えると、この劇が表面上は楽しい笑いを見せたりしながらも、喪失感を濃く漂わせているからではないかと思う。
 時のうつろいと共に何かを失っていく感じ。それは多くの人にとって身に覚えのあるものだからこそ、心を揺さぶられるのではないだろうか。
 
 物語が進むにつれて「喪失感」をはっきりと感じさせるのは湯川と平良だろう。愛する人を日本に残し、グリーンカードを取得するためにベトナムに来た湯川。戦争が泥沼化し、グリーンカードはいつになったらもらえるかわからない。待たせてきた恋人は、とうとう別の人と結婚してしまう。
「ベトナムに平和を!」と叫び、ジャーナリストが正しい報道をすればそれが実現すると思っていたのに、事態は悪くなる一方で、理想を、というより理想に至る道を見失っていく平良。
 この二人が擬装とはいえ婚約に至るのは驚きの展開だったが、もしかすると二人はその喪失感の深さゆえに共鳴できるところがあったのかもしれない、と解釈すると、納得できるような気もする。

 劇を見ている観客が最大の喪失感を味わうのは、もちろん澤田が死んでしまう場面だろう。澤田自身も喪失感を抱えていた。澤田が失ったもの=それは、単純に写真を撮ることの喜び。少なくとも劇の冒頭では、無邪気に春の景色を撮る澤田はそれを持っていた。しかしベトナムへ来て、戦争を伝え、戦争を終わらせるため写真を撮るようになった澤田には、もうそんな単純な喜びはない。立派な賞をいただいてからは、なおさらだ。澤田の「日本には戦争がありません。僕は何が撮れるのでしょう」というつぶやきは、彼のそういう喪失感を表した言葉だった。
 しかし澤田は少なくとも戦争以外のものを撮ること、単純に撮りたいものを撮る喜びを取り戻そうとしていたはずだ。ラストのモノローグで言うように、日本へ帰って幸せな家族の笑顔を撮りたいと願っていたはずだ。そのように考えていた矢先に彼の命が奪われることで、見ている側の喪失感はいっそう深くなる。彼は、取り戻そうとしていたものを二度と取り戻すことができなかったのだと思い、その悲痛さがしみる。澤田が語る澤田の父もまた、戦争に行って失った何かを取り戻せなかった人だった。そして、澤田も、単純な「撮る喜び」を取り戻せないまま、死んだ。

 だから最後のモノローグで澤田が語りかける時、語りかけられる側(つまり観客)は、彼が果たせなかったものを託されたように感じる。何かを失ったまま亡くなった人たちに代わって、その喪失を埋めてあげたいと思う。
 そういう点において、やっぱりこの劇は巧いのだ。誰もが何か失ったものを思いつつ、今生きている自分にはまだ何か取り戻せるものがあるはずだ、あるいは失わないように守れるものがあるはずだ、という気にさせるところが。  

Posted by mc1479 at 07:02Comments(0)TrackBack(0)
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