2013年02月20日
嫌われ松子の一生
中島哲也が話題の監督であることは知っていたが、映画館では見たことがなくて『下妻物語』も『パコと魔法の絵本』も『告白』も、ケーブルTVで見た。で、これも。
「映画は映画館で見るべき」という考えからしたら私の見方は邪道だろうし、その上「面白いが、飽きる」と思っているのだから、ずうずうしい。
お話としては『下妻物語』が好きだ。あまり類のない、女の子どうしの友情物語だから。この映画以降、中島作品は話題になり、ヒットもするようになった、というのが流れだろう。
目で見て面白い、のは誰もが認めるところだと思う。
マンガチックな画面による説明。ミュージカル風場面。
だが、それらに私は飽きてしまうのだ。しかも何作か続けて見たから飽きる、というのではなく、一作品の中で飽きてしまう。そういう意味でも『嫌われ松子の一生』はキツかった。他の作品が102分~106分なのに、これは130分ある。100分くらいなら面白かったかも? 最後の方の回想シーン+まとめみたいな5分間くらいは必要だったのか?
いやもちろん必要だからこそ入れたのだろう。たぶん、この作り手は語りたい内容、というより見せたい画があって、それを全部見せきらないと作品が終わらないのだ。
多くの映画が、奥行きを感じさせる画面作りを工夫してきたように見えるのに対して、あえて平面、紙芝居のようなミュージカル風シーンを多く挿入する。
それは「しょせん作りものなのだよ」という開き直りのようでもあり、「作りものこそ見せるべきものだ」と言っているようでもある。
悲惨な女の物語を演じるとその女優は評価される、という面はある。海外ではラース・フォン・トリアー監督の作品はそうだし、この『嫌われ松子の一生』の中谷美紀も高く評価された。
悲惨な女の話、というのは「見てみたい」ものなのかもしれないし(昔にも、たとえば1955年 成瀬巳喜男監督の『浮雲』があった)、自分より悲惨な人間を見ることでカタルシスを感じることもあるかもしれない。
また、実際あまり悲惨だとかえって笑ってしまいたくなることあるのかもしれない。そう考えれば、この映画の表現方法は、松子の悲惨な物語を笑い飛ばそうとしているのだということになtるのだろう。
それでも何か「こうやって笑い飛ばすべきだ」と、笑い飛ばし方まで示されているようなところが、私には居心地が悪いのだった。
「映画は映画館で見るべき」という考えからしたら私の見方は邪道だろうし、その上「面白いが、飽きる」と思っているのだから、ずうずうしい。
お話としては『下妻物語』が好きだ。あまり類のない、女の子どうしの友情物語だから。この映画以降、中島作品は話題になり、ヒットもするようになった、というのが流れだろう。
目で見て面白い、のは誰もが認めるところだと思う。
マンガチックな画面による説明。ミュージカル風場面。
だが、それらに私は飽きてしまうのだ。しかも何作か続けて見たから飽きる、というのではなく、一作品の中で飽きてしまう。そういう意味でも『嫌われ松子の一生』はキツかった。他の作品が102分~106分なのに、これは130分ある。100分くらいなら面白かったかも? 最後の方の回想シーン+まとめみたいな5分間くらいは必要だったのか?
いやもちろん必要だからこそ入れたのだろう。たぶん、この作り手は語りたい内容、というより見せたい画があって、それを全部見せきらないと作品が終わらないのだ。
多くの映画が、奥行きを感じさせる画面作りを工夫してきたように見えるのに対して、あえて平面、紙芝居のようなミュージカル風シーンを多く挿入する。
それは「しょせん作りものなのだよ」という開き直りのようでもあり、「作りものこそ見せるべきものだ」と言っているようでもある。
悲惨な女の物語を演じるとその女優は評価される、という面はある。海外ではラース・フォン・トリアー監督の作品はそうだし、この『嫌われ松子の一生』の中谷美紀も高く評価された。
悲惨な女の話、というのは「見てみたい」ものなのかもしれないし(昔にも、たとえば1955年 成瀬巳喜男監督の『浮雲』があった)、自分より悲惨な人間を見ることでカタルシスを感じることもあるかもしれない。
また、実際あまり悲惨だとかえって笑ってしまいたくなることあるのかもしれない。そう考えれば、この映画の表現方法は、松子の悲惨な物語を笑い飛ばそうとしているのだということになtるのだろう。
それでも何か「こうやって笑い飛ばすべきだ」と、笑い飛ばし方まで示されているようなところが、私には居心地が悪いのだった。